雑記

今日は母親の14回目の命日。振り返り+生きること+死ぬこと

投稿日:2018年7月19日 更新日:

2004年7月19日は、私の母の命日だ。
母は44歳の若さでこの世を去った。

あれから今日で丸14年が経過した。今年で28歳になる私の人生のちょうど半分にあたる。
ちょっと感慨深いので、ここはひとつ当時を思い出しながら文章を記してみたいと思う。

***
今年、2018年は全国各地で多くの自然災害があった。
2月には北陸での大雪。私の住む福井も死者が出たし、国道で車1500台が立ち往生するなど大きな被害を受けた。
6月には大阪で震度6弱の地震。7月上旬には西日本一帯を覆う豪雨。
それぞれに多くの死者が出た。

そして、連日の猛暑、酷暑。熱中症による死者も出ている。

どんなに対策しても、自然の脅威には逆らえない。

2004年7月も、福井で豪雨による水害があった。(Wikipedia – 平成16年7月福井豪雨
足羽川の堤防が決壊するなどして、死者4名。
命日のちょうど前日、7月18日のことだった。

***
7月19日。
担当の医者から「今日かもしれません」とのことで一家全員が呼ばれる。
だいたい14時か15時頃のことだったと思う。

家族全員に見守られながら、母は静かに息を引き取った。

父も、姉も、祖父母も、みんな泣いてた。
私は居ても立っても居られなくなり、病室から飛び出し、個室トイレに引きこもる。
理解が追い付かず、一人泣きじゃくる。

「なんで・・・なんで母さんが?」

***
死因は膵臓ガン。

私は、母が「ガン」ということを命日のわずか2週間前に知った。
おそらく7月に入ってからだったと思う。

半年ほど前から通院していたが、5月ごろに入院。
そのころ父や祖父母からは「ちょっと病気で」といったくらいしか聞かされていなかった。
思えば、あのときもっと強く「何の病気か?」と聞いておけばよかった。
当時中学2年生だった私。ちょうど反抗期に入りだす時期ではある。
なんの病気かをそこまで深く知ろうとはしなかった。
一時退院もあったりしたし「きっと治るんだろう」とばかり思っていた。

何度か見舞いにも行った。
少しやつれている感じはあったが、まだ話すことができていた。

しかし6月になっても退院する気配がない。
7月に入ってようやく、私は姉と一緒に、父に呼び出された。

「母さんは膵臓ガンなんだ。今必死に病気と闘っている。応援してあげてほしい」

親の間で話し合った結果、最初のうちはまだ中高生の我々姉弟には言わない方がいい、と判断したらしい。
しかし7月、このことを宣告されたときにはガンは相当進行していた。
他の臓器にも転移しているとのことで、すでに末期の状態だったのだろう。

膵臓は、他の臓器に隠れているため病気が非常に見つかりにくい。そして治療しづらい。
今でこそ陽子線治療などがあるが、あの当時は多分そんなものはなかった。
手術もできない。抗がん剤治療をしてたと思う。

父からは一言もなかったが、当時の自分の中で「もしかしたら死ぬのかもしれない」ということが浮かび上がった。
正直考えたくはなかったが、その可能性を考えないわけにはいかなかった。

暑い中、姉と私2人自転車をこいで見舞いにも行った。
7月も中旬に差し掛かると、いよいよほとんど会話も難しい状態になっていた。

正直何を話したか覚えていない。一言一言がかなり辛そうだった。
母も自分が残り僅かということを分かっていたと思う。
しかし、母は子どもの前では強くいなければいけない、と思うものなのだろうか。
決して弱音は吐かなかった。

最期の瞬間、本人は自力で水も飲めない状態になってた。もはや会話もできない。
辛そうな母を見るのがいたたまれなかった。
医師から、「水を飲ませてあげてください」と、綿に含ませた水を手渡される。
それを家族ひとりひとり、母の口元に当ててあげる。
もう既に何もしゃべれなかったが、水を飲んだ母が一筋の涙をこぼした。

そのとき「あ・・・」という口の形と、声にならない声を聴いた。
母は「ありがとう」ということが伝えたかったんだと思う。
私も「ありがとう」ということを伝えたと思う。

***
ほどなくして通夜や葬式が営まれた。多くの参列者が涙していた。
中学の恩師も、クラスメイトもたくさん来てくれた。励まされた。
私はまったく泣けなかった。「どうして?」という気持ちの方が強すぎて。
他の同世代の多くはまだ父母ともに健在であるところがほとんどなのに、あまりにも理不尽すぎるだろ、と思ってた。

火葬も終わり、母の遺骨を箸で掴んで骨壺に入れる。焼け跡はガンに蝕まれ変色していた。
生身の身体もなくなって、本当にこの世からいなくなってしまったんだと、このとき初めて実感した。

それからもまだこの理不尽な死への理解が追い付かなかった。
あまりにも「ガン」と聞かされてからの「死」までの時間が短かった。
なんかまだどっかで生きているんじゃないか、というふわふわした気持ちがあった。

1~2年の間は夢にも何度も出てきた。
夢をみながら、不思議と”これは夢だ”という自覚もなんとなくあった。
夢の中で生きている母でも話せるのが良かった。
でも目が覚めるたびに、どこかむなしい気持ちになった。

高校も卒業し、大学にもなるとさすがに夢にも出てこなくなった。
「母はもういない」ということに順応したのだろう。記憶も薄れていったかもしれない。

母がいなくなっても変わらず接してくれた父と、祖父に感謝している。
そして母の代わりに家事をこなし、私の面倒を見てくれた祖母に感謝している。
祖母が「あんたの母さんが早くに逝ってしまったから、その分まで頑張ってるんや」と言ったことも一生忘れない。

***
人はかならず死ぬ。
今の日本人の平均寿命からすれば44歳というのはとても短い。
けど母はそういう運命だったんじゃないかとも思う。

そして母は不幸だったか?と思うと、そうでもないと思う。
多くの参列者が「いい人だった、本当に残念」と言ってくれたことだけでそれがわかる。
生前、どれだけの人生を送れたか、ということが大事なんだと思う。
母は強く、優しかった。
小学校の教師という職業柄もあり、見習うべきところの多い尊敬できる母だった。

今回の豪雨や、猛暑で亡くなられた方。
高齢者が多いが、中には若い人たちもたくさんいる。
助かった、助からなかったみたいなのって何なんだろう。

不思議と、「いい人ほど早く逝く」と言われる。
いい人は「いい人生を送れた」と満足して逝けるかもしれないけど、そうでない人はまだ「いい人生」が送れてないから神様が「まだ生きろ」って言ってるのかもしれない。

私も、当時は自分のことを不幸だったと思うけれど、今はそうは思わない。
むしろ、特に大きな病気も怪我もなくここまで生きてこれた。
強く生んでくれた母には本当に感謝している。
(幼い頃は喘息を患うなど身体が弱く病院に通っていたが、今はほとんど治癒した)
ただそれだけで感謝するだけの多大な価値がある。

私も死ぬ前に「いい人生だった」と言って逝きたい。悔いが残らないように。。

 

この気持ちを忘れずに日々全力で生きていこうと思った、そんな27の夏でした。

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